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1986-88

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2部B復帰と2部A昇格

1986 ~2009年

エイバルは、2部A昇格に期待をかけて1986-87シーズンの開幕を迎えました。夢は翌1987-88シーズンに実現します。このシーズンはクラブ史に残る出来事のあった1年でした。なかでも、キーパーのガルメンディのゴールキックが相手チーム、ポンテベドラのゴールマウスに入り、ゴールになった“事件”。ファンは驚愕歓喜し、ガルメンディは一躍時の人となりました。

昇格のかかったドゥランゴの試合には、大勢のエイバルサポーターが応援にかけつけました。昇格決定後、ウンツァガ広場は昇格を祝うためにつめかけたファンであふれかえりました。

2部Aでの初シーズンとなる1988-89が開幕しました。チームの目標は、強敵揃いのカテゴリーで恥ずかしくない成績を残すこと。そのため、アスレティック・クラブと歴史的ともいえる協定を結びました。これは長年友好関係を培ってきたレアル・ソシエダとの間に距離を置くことを意味しました。

奇跡的に降格を回避したシーズンあり、順位表の中位をキープするシーズンありで、好調と不調を繰りかえしながら、エイバルは2部Aに定着していきます。

1990年、クラブ創設50周年を記念して、エイバルはアヤックス・アムステルダムと対戦しました。この日は大嵐の悪天候で、試合はルルアガのPKで1-1の引き分けでした。余談ですが、1965年の聖アンデレの日に開催された25周年記念試合も、同様の悪天候でした。ちなみにこの試合はジロンダン・ボルドーに5-3でエイバルが勝っています。

1992年はチャレンジの年でした。会社形態をスポーツ株式会社に移行したのに伴い、クラブの正式名称がSDエイバルS.A.Dに変るなど、一連の変化がありました。スポーツ株式会社化にあたっては、6600万ペセタ(40万ユーロ)の増資が必要で、当初これだけの資金を集めるのは困難とみられていましたが、アスレティック・クルブからの経済支援が決め手となりました。

1998-99シーズンには、再び奇跡的な残留劇が起こります。降格が決定的とみられていたシーズン終盤、最後の9試合で27ポイント中21ポイントを獲得し、努力と粘りのエイバル伝説をより強固にしたのです。

1999-2000シーズン、ブラス・シアレタの監督就任とともに、“鉄のサッカー”がエイバルサッカーの特徴となります。2000-01シーズン、後に世界のサッカー界に名をとどろかせるシャビ・アロンソが、レアル・ソシエダからのレンタルで3ヶ月間、エイバルでプレーしました。2002年には、14年間会長を務めたフアン・ルイス・マルダラスが会長職を退き、ハイメ・バリウソが新会長に就任します。

2003-04シーズンは、アモロルトゥ監督の下、国王杯でレアル・マドリードと2試合を互角に戦い、エイバルの存在をアピールします。エイバルの“アンチフットボール”サッカーの神話がこの頃から崩れ始めます。

同じ年、SDエイバルは同市内にある1991年創設のエイバルタラックから女子チームを引き継ぎました。何シーズンも1部に在籍し、1999年のクイーン杯で準優勝するなど、確かな実績のあるチームです。2009-10シーズンにエイバルの女子チームとして、スーパーリーグに参戦しました。

2004-05は劇的なシーズンでした。メンディリバルを指揮官に、チームは後に1部リーグで成功する顔ぶれを揃えていました。例えば、先述のシャビ・アロンソと共に南アフリカ開催のワールドカップで世界チャンピオンとなった、当時19歳のダビド・シルバです。

シーズン最終節のホームのラシン・デ・フェロル戦では、キャプテン、ガイスカ・ガリタノ以下、選手たちは、17分間1部リーグに足を踏み入れていました。しかし、手の中にあった昇格を、あと一歩のところで逃がしたのでした。

シーズン終了後、この素晴らしいチームは解体し、翌2005-06シーズンには18年間連続で在籍した2部Aから降格しました。エイバルが達成した18シーズン連続という2部在籍記録は未だに破られていません。

 “マニックス”ことマンディオラを指揮官に据えた2006-07シーズンは、最終戦でラヨ・バジェカノを下して2部A復帰を決めます。翌シーズンはカテゴリー残留を果たしますが、1年後の2009年、チームは再び2部Bに逆戻りします。ハイメ・バリウソは一身上の都合ですでに会長を辞任しており、心機一転を図るべく、アレックス・アランサバルが新会長に就任していました。